レーシック 比較の実現!
新しいレーシック手術の方法が続々と登場しています。安全な処理を行うためにもレーシックについてもっと知っておきましょう。
彼のところに島の若者たちが集まるようになった。
ジャズ、歌舞伎、ベトナム戦争、高橋和巳と何でも論じあい、酒を飲んではハメをはずし、六〇年安保の後の騒然とした時代である。
この友人たちは苦しい闘病で独りの世界にひきこもりがちなA.Nさんに、「基礎的な社会性をうえつけてくれた」という。
彼らの友情は終生、変わること、がなかった。
A.Nさんの感染を知ってからも励まし続け、薬害裁判の支援グループを作る時の中心メンバーになった。
私は一九八九年の正月に、伯方島のA.Nさんの家で開かれた新年会の暖かな雰囲気を、時思い出す。
この日、北浦の海は、陽をいっぱいに浴びて、のったりと穏やかだった。
集まった六、七人の男たちはとびきりおトしトエビや刺身を食べ、酒をくみかわしてくつろいでいた。
幼なじみがエイズに感染したと知った後のショックから立ち直り、とりたてて気負うこともない。
A.Nさんを囲んで、青春時代の思い出やよもやま話に花を咲かせながら、エイズの話もする。
体調を気づかう。
皆、A.Nさんの感染を知るまでは、エイズは蚊でうつりはしないか、感染者と一緒にいて大丈夫なのか、というレベルで、薬害のこともエイズ予防法のことも考えたことがなかった。
A.Nさん、が名乗り出たことも、ショックだった。
しかし会ってみれば、以前とまったく変わりがない。
そのことを互いに喜びあっているのがわかる。
どの人も、「いい正月だなあ」と思っている。
一番年長のN.Yさんは、今治の隣町で禅寺の住職をしている。
彼はその昔、愛媛県の勤務評定反対闘争によって島流しにあい、伯方島の中学校に強制配転された社会科の教師で、A.Nさんの“サロン”に通いつめた一人だった。
N.YさんはA.Nさんからの長文の手紙で、エイズの感染を知らされた。
「笑っている。
会U.Rも『いつまでもつかわがらんが、元気でおやりよ。
わしもやるけん』と言うしかない。
会U.R慰める気は毛頭ないし、彼も慰めを受け入れる人ではない。
そういうものでなく理解しあえる。
仮に立場が逆転しても、たぶん彼は特別に私を慰めまい。
ただ病気のことは一から学ばねばならん、と思います」N.Yさんは今も「えひめHIV訴訟支援の会」の会長をつとめている。
この新年会のシーンは番組のなかでも紹介したため、放送後、彼らは職場や近所の人たちから、「A.Nのフミオとつきあってもエイズがうつらないのか」、「隔離しなくていいのか」と問われることになった。
それを一人ひとりに説明し、やがてどの人もエイズの“広報係”になっていった。
A.Nさんは恋多き青春時代を送った。
いつだったか、「失恋すると女の子に『智恵子抄』を渡す癖があった。
五冊くらいは渡したかな」とつぶやいていたことがある。
二八歳で家出して東京へ出たのも、当時つきあっていた女性との仲を母親に反対されたのがきっかけだった。
親から自立しなくてはならないと思ったという。
東京では写真の現像所や義兄の鉄工所で働いた。
無理をして倒れて入院した病院で、やがて妻となる人に出会う。
彼女は有能な看護婦だった。
二人は一九七三(昭和四八)年に東京で所帯を持ち、二年間暮らした後、今治に移り住んだ。
このころ、血液製剤が開発された。
かつてのような内出血の痛みは過去のものになった。
A.Nさんの行動範囲は広がっていく。
妻が病院で働いて家計を支え、夫は血友病の患者運動に没頭した。
本格的に書道も始めるようになった。
この静かで充実した日は、エイズによって一変する。
一九八四年の抗体検査では、まだ陰性だった。
ところが翌年の一〇月、エイズに感染した時の初期症状が出た。
血友病人の加熱製剤は、この年の七月に認可されたが、血友病Bの加熱製剤の認可は一一月。
八六年七月に再び抗体検査を受けたところ、今度は陽性と出たらしい。
そして八七年一一月、医師からエイズの感染を告知された。
性静なれば情逸し、心動けば神疲れる。
一何もしなければ感じることもできないが、心ばかり焦っても何も得ることがない。
一九八九年二月六日放送の番組の最後は、A.Nさんがこの字を書くところで終わっている。
何枚も練習をしながら、その意味を聞かれて、「心静かにしてたらいい。
いろいろあり過ぎたから少し落ち着きたい……」とつぶやいた。
しかしHIV感染者だ、と名乗ったことによる本格的な騒動は、この放送の後に始まり、「性静情逸」などとは正反対の生活に突人した。
私にとっては前回一一月の「おはようジャーナル」の経験から、心にゆとりができていた。
パニックは起こらないだろうと考えていた。
「少し鈍く反応するつもり」と言っていた地域での動きに対しては、A.Nさん自身、予想を立てて行動範囲をセーブしていた。
理髪店や寿司屋などへ行ったところで何の心配もないとわかっていても、相手の不安を考えて行かないことに決めていた。
歯医者へも行かなかった。
私は「診てくれる歯科医を開拓した方がいい」と言ったことがあるが、「いちいち説明して医者がどんな気持ちだろう、と表情を見ているだけでうんざりする。
めんどうくさい。
テメエでペンチで抜いちまうんだ」と言って、痛む歯は一〇本近く、自力で抜いていた。
求められたり、犬の散歩をしていると、今まで声をかけてくれた人たちがス″と消えてしまう、というたぐいのことは、だいぶ時が経ってから冗談まじりにロにした。
不愉快なことを数えあげるより、嬉しい知らせを優先させる人たった。
「『あの人についていくしかないわよ。
何言ってもきかないんだから』なんて言ってるんだ。
彼女は明るくなった。
これはありがたいよ」奥さんのことは、いつも気がかりだった。
別居して都会の病院で働いていた時に、初めて会って話をした。
彼女は「夫がやかにやまれず行動をおこしたいというのはよく理解できるが、一緒に行動をおこすことはできない。
看護婦という仕事のこともあるし、静かな普通のくらしをしたい」と言った。
これはその後、今治に戻ってからも変わらなかった。
撮影で一日中、A.Nさんの家にいる時も、私たちの前に姿を現わすことがなかった。
ずっと自室に閉じこもっているので、襖越しに長時間話をすることはあったが、決して出てきてはくれなかった。
A.Nさんが「黙認する、という形での協力をしているのだから、気にしなさんな」と言ったが、私たちが奥さんの生活を侵害していることは確かで、申し訳ないこいたった。
しかし奥さんの貳翁抄に甘えてA.N家に出入りするしかなかった。
だからA.Nさんは“妻の変化”を小まめに報告してくれた。
やがて奥さんは少しずつA.Nさんの仕事を助けるようになり、最後はA.Nさんの有力な片腕となって裁判やキャンペーン活動を支えた。
A.Nさんが亡くなった後、目立たないようにしながら感染者の活動や裁判を応援している。
理解のある職場も得て、生きいきとしているのが、ただ嬉しい。
放送後にもちあがった問題のひとつは、通院していた病院の反応だった。
N放送局特集の放送、があった次の日、A.Nさんから、「病院へ薬をもらいに行くつもりで電話をしたら、先生が『もう来てくれるな』と言う。
新しい県立病院で血友病の治療を受けてくれと言うんだ。
そこまではタクシー代が倍以上かかる。
これはひどいと思いませんか」と電話、があった。
大きくはないが、地元の信望がある堅実な病院だ。
A.Nさんの日常的な血友病の治療も長年手がけてきた。
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幼なじみがエイズに感染したと知った後のショックから立ち直り、とりたてて気負うこともない。
A.Nさんを囲んで、青春時代の思い出やよもやま話に花を咲かせながら、エイズの話もする。
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皆、A.Nさんの感染を知るまでは、エイズは蚊でうつりはしないか、感染者と一緒にいて大丈夫なのか、というレベルで、薬害のこともエイズ予防法のことも考えたことがなかった。
A.Nさん、が名乗り出たことも、ショックだった。
しかし会ってみれば、以前とまったく変わりがない。
そのことを互いに喜びあっているのがわかる。
どの人も、「いい正月だなあ」と思っている。
一番年長のN.Yさんは、今治の隣町で禅寺の住職をしている。
彼はその昔、愛媛県の勤務評定反対闘争によって島流しにあい、伯方島の中学校に強制配転された社会科の教師で、A.Nさんの“サロン”に通いつめた一人だった。
N.YさんはA.Nさんからの長文の手紙で、エイズの感染を知らされた。
「笑っている。
会U.Rも『いつまでもつかわがらんが、元気でおやりよ。
わしもやるけん』と言うしかない。
会U.R慰める気は毛頭ないし、彼も慰めを受け入れる人ではない。
そういうものでなく理解しあえる。
仮に立場が逆転しても、たぶん彼は特別に私を慰めまい。
ただ病気のことは一から学ばねばならん、と思います」N.Yさんは今も「えひめHIV訴訟支援の会」の会長をつとめている。
この新年会のシーンは番組のなかでも紹介したため、放送後、彼らは職場や近所の人たちから、「A.Nのフミオとつきあってもエイズがうつらないのか」、「隔離しなくていいのか」と問われることになった。
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二八歳で家出して東京へ出たのも、当時つきあっていた女性との仲を母親に反対されたのがきっかけだった。
親から自立しなくてはならないと思ったという。
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この静かで充実した日は、エイズによって一変する。
一九八四年の抗体検査では、まだ陰性だった。
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血友病人の加熱製剤は、この年の七月に認可されたが、血友病Bの加熱製剤の認可は一一月。
八六年七月に再び抗体検査を受けたところ、今度は陽性と出たらしい。
そして八七年一一月、医師からエイズの感染を告知された。
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やがて奥さんは少しずつA.Nさんの仕事を助けるようになり、最後はA.Nさんの有力な片腕となって裁判やキャンペーン活動を支えた。
A.Nさんが亡くなった後、目立たないようにしながら感染者の活動や裁判を応援している。
理解のある職場も得て、生きいきとしているのが、ただ嬉しい。
放送後にもちあがった問題のひとつは、通院していた病院の反応だった。
N放送局特集の放送、があった次の日、A.Nさんから、「病院へ薬をもらいに行くつもりで電話をしたら、先生が『もう来てくれるな』と言う。
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